夜風が無情に肌を撲つ真冬。墨の香りが仄かに空気に溶け込んでいる室内で、尊氏は一人静かに大乗経を写していた。
「師直、そろそろ……」
 師直、と呼び掛けてからはっとする。師直は既にこの世にはいない。
(そうだ……師直も、直義も、俺のために死んだ。否、俺が二人を殺したのだ)

 師直は数年前に俺が殺した。直義も、その一年後に俺が殺した。

 表向き、師直は直義派の武将らに殺されたことになっている。本当は、師直を持て余した俺が、上杉らに師直を殺害できるように仕向けたのだった。和睦したところで、師直一派と直義一派の関係性を修復できるとは思わなかったからだ。師直には申し訳ないことをしたと心底悔やんだ。だが、将軍として、師直を切り捨てる他、選び取ることができる道がなかった。
 そして、一年後には兄想いの心優しい直義を利用して、服毒自殺するように促した。直義は黄疸による突然死ということになっている。猶子基氏の元服を見届けた後、安心しきった直義はあたたかな春の風と共に彼岸へ渡ったということになっている。直義ならば、俺のために死ぬことを厭わない。本当は直義の気持ちに気付いていた。気付いていながら、俺はその気持ちを利用したのだ。直義と共に創った幕府の秩序を乱さぬために。これ以上、戦火が広がらぬようにするために。そのためには、直義に死んでもらうほか仕方がなかったのだ。

 本当は二人を殺したくなどなかった。

 だが、俺は幕府の安泰と二人の命を秤にかけて、幕府の安泰を選んだのだ。当然許されるべきではない。あれだけ自分に尽くしてくれた執事も、俺を俺以上に想っていてくれた弟も、蜥蜴の尾を切る様にいとも容易く命を奪った。
 敬愛していた帝も、自分の身を守るために裏切った。幼き日、共に手を取り合って歩もうと約束した義貞も、盟友として親しく夢を語り合った正成も、みな俺が殺したのだ。
「痛……」 
 最近、背中に二つの腫物ができた。よくよく見てみると、人の顔のようである。どことなく、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
(きっと多くの人を殺した罰だ)
 人の顔をした腫物は、怨嗟の声を上げるかのように、幾度となく膿を吐き出した。その激痛で何度も意識を失った。次に眠った時には目が覚めないのではないか、という恐怖に苛まれる。いっそ、目が覚めなければよいのに、とも思う。穏やかに、最期の瞬間を迎えられたら、と何度も願った。
(しかし、俺は安らかに永眠ることなど、許される身ではない……)
尊氏は痛みを堪えつつ、再度筆を執る。せめてもの罪滅ぼしである。薄い色をした墨を筆に含ませ、写経を再開する。

――尊氏は今日も独り、墨の香りと共に更けていくのであった。